Events 近況

2011年8月(その7)

「日中国交正常化の周辺」と題して、ある研究会で報告いたしました。

拙著『日中国交正常化――田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦』(中公新書、2011年)の内容を敷衍しならがら、史料や残された課題などに触れたものです。

先生方のコメントが、とても参考になりました。

貴重な勉強の機会を与えて下さいましたことに深謝申し上げます。

2011年8月(その6)

拙著『日中国交正常化――田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦』(中公新書、2011年)が、8月14日の『読売新聞』で書評されました。

細谷雄一先生によるものです。

外交史の本が新聞であまり取り上げられないなか、ご専門のイギリス外交史という枠を超えて書評し続けるのは、なかなかできないことだと思います。

この場をお借りして、深く御礼を申し上げます。

同書については、8月16日の『チャイニーズドラゴン』でも紹介されました。

2011年8月(その5)

拙著『日中国交正常化――田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦』(中公新書、2011年)が、『週刊東洋経済』8月13・20日合併号で取り上げられました。

書評を執筆して下さった西村吉正先生に深謝申し上げます

        ◆           ◆

一般論として、新聞や商業雑誌の書評では紹介という意味合いが強く、学会誌における書評などと性格を異にしていることは理解しているつもりです。

それにしても、狭義の専門家以外にどう読まれるかということは、とてもいい勉強になります。

新書のような形態では、教養ある読者層を意識するため、特にそうだと思います。

かといって、読者に媚びるような運びにすることは本末転倒ですので、あくまで事実関係には忠実でなければなりません。

この点は、拙著『広田弘毅』(中公新書、2008年)でも反芻し、拙稿「広田弘毅について」(『比較法制研究』第33号、2010年12月)で触れました。

2011年8月(その4)

ある研究会後、諸先生方や編集者の方と神宮の花火大会を観ました。

某社のご好意により、場所を提供していただきました。

間近に観られて幸運でした。

この夏は三陸海岸に行きたいと思っていたのですが、どうやら難しくなりそうです。

阪神淡路大震災ではボランティアの方々に励まされただけに、心残りです。

2011年8月(その3)

拙著『日中国交正常化――田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦』(中公新書、2011年)が、『外交』第8号(2011年7月)で書評されました。

大津留(北川)智恵子先生によるものです。

次の本と合わせて書評して下さいました。

上品和馬『広報外交の先駆者 鶴見祐輔 1885-1973』(藤原書店、2011年)

田辺俊介『外国人へのまなざしと政治意識――社会調査で読み解く日本のナショナリズム』(勁草書房、2011年)

この場をお借りして、深く御礼を申し上げます。

2011年8月(その2)

津村節子『紅梅』(文藝春秋、2011年)を読みました。

『文學界』掲載時から目を通しており、あらためて単行本も手にしました。

夫である吉村昭氏の最期を描いた作品です。

吉村氏の他界から数年を経て、昨年は『桜田門外ノ変』上下巻(新潮文庫、1995年)が映画化されました。

今年は『三陸海岸大津波』(文春文庫、2004年)が読者を増やしたようです。 

創作の部分があるにせよ、吉村氏は記録文学、歴史小説のなかにも史実を求めた数少ない作家だったように思います。

2011年8月

拙稿「藤尾文相発言――外務省記録から」(『中央大学政策文化総合研究所年報』第14号、2011年8月)が公表されました。

第3次中曽根康弘内閣が1986年7月に成立してから、同年9月に藤尾正行文部大臣が罷免されるまでの史料です。

藤尾文相は安倍派幹部で、かつて青嵐会に属した台湾派でもありました。

次のような誤植が生じてしまいました。

66頁下から6行目 誤:及ぼさざるえない
正:及ぼさざるえ(ルビ・ママ)ない

再校時、「るえ」に「ママ」と指示を入れておいたのですが、うまく反映されなかったようです。

これまでも断片的ながら、以下のような史料を紹介してきました。

「大平・鄧小平・華国鋒会談記録――1979年2、12月」(『中央大学論集』第32号、2011年3月)37-69頁

「中曽根・胡耀邦会談記録――1983、84、86年」(『総合政策研究』第19号、2011年3月)161-203頁

「田中首相・ニクソン大統領会談記録――1972年8月31日、9月1日」(『人文研紀要』第68号、2010年3月)413-444頁

「大平・金鍾泌会談記録――1962年秋」(『人文研紀要』第65号、2009年9月)193-234頁

「宮澤談話に関する一史料」(『中央大学論集』第30号、2009年3月)13-19頁

「金大中事件に関する一史料」(『総合政策研究』第17号、2009年2月)1-6頁

時間的な制約から、今後は史料紹介を行えなくなりそうです。

2011年7月(その5)

拙著『日中国交正常化――田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦』(中公新書、2011年)が、7月24日の『日本経済新聞』で書評されました。

評者の表記がないので、おそらく記者の方だと思います。

同紙で取り上げていただいたのは、拙著『幣原喜重郎と二十世紀の日本――外交と民主主義』(有斐閣、2006年)以来です。

深甚の謝意を表します。

2011年7月(その4)

丹波實『わが外交人生』(中央公論新社、2011年)を読みました。ロシア専門家として知られる丹波實氏の回想録です。

ソ連課長、安保課長、国連局長、条約局長、駐サウジアラビア大使、外務審議官、駐ロシア大使など要職を歴任されているだけに、多くの手掛かりを与えてくれます。

沖縄返還協定交渉、日中国交正常化、ライシャワー発言、湾岸戦争、PKOなど、率直に記されています。

北方領土をめぐる交渉についても論じられ、四島一括返還が日本の立場であると力説されています。

丹波實『日露外交秘話』(中央公論新社、2004年)と併読すると、理解が深まりそうです。

日中国交正常化でいえば、共同声明への調印時、田中角栄首相の隣りに立っている方だと思います。

拙著『日中国交正常化――田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦』(中公新書、2011年)では、187、191頁です。

2011年7月(その3)

平野健一郎・土田哲夫・村田雄二郎・石之瑜編『インタビュー 戦後日本の中国研究』(平凡社、2011年)を拝読いたしました。

中国研究の第一人者たちに聞き取りを行ったものです。

自らの歩み、中国との交流、学界を取り巻く環境などを振り返っています。

碩学の語り口から、開拓者としての葛藤が伝わってきます。

インタビューする側にも、それぞれの個性を感じました。

文献の扱い方、時代の制約、共同研究のあり方、研究の細分化に対する懸念、大学教育、学問の継承と発展などについて、大いに考えさせてくれます。

研究者にテーマ・インタビューが行われ、しかも公刊されるのは稀ではないかと思います。

2011年7月(その2)

栗山尚一大使のご論考「戦後日本外交の軌跡」が、雑誌『アジア時報』に長期連載されています。

ここ数回は、日中国交正常化における日米安保体制と台湾を扱っています。

いずれも、現代外交の根幹となるところですね。

中国と国交が樹立された1972年9月当時、栗山氏は外務省条約局条約課長でした。

最新号では、日華平和条約をめぐる内閣法制局との協議などが記されています。

オーラル・ヒストリーと併読していただきますと、理解が深まると思います。

2011年7月

『エコノミスト』7月12日号、61頁にインタビュー記事が掲載されました。

拙著『日中国交正常化――田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦』(中公新書、2011年)に関するものです。

要旨や意図について、うまくまとめて下さいました。

深く御礼を申し上げます。

2011年6月(その6)

拙著『日中国交正常化――田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦』(中公新書、2011年)が、『週刊ポスト』6月24日号の書評欄で手短に紹介されました。

ある先生が教えて下さいました。

この書評に限らず、今日の問題に引きつけて考えて下さった方が少なくないようです。

つまり、田中角栄内閣による日中国交正常化は、現在の政局にも示唆しうるのではないかというご意見です。

実際、民主党の要人たちが菅直人首相の退陣時期を口にして廻る姿は、どうみても本来あるべき姿ではなさそうです。

田中内閣における大平正芳外相のような盟友が、首相には必要なのかもしれませんね。

日中国交正常化で田中は大きな方針だけを示し、謝罪の表現から台湾条項に至るまで、事実上の全権を大平に委ねました。

異なるリーダーシップが共振し、官僚たちを信頼して使いこなしたとき、中国への道は初めて開かれたのです。

ややもすると政治主導は、官僚を排除することとも解されるようですが、舞台裏で奔走した無名の官僚たちも描きたいと思いました。

政治主導で官僚の役割がなくなってしまうのではなく、政治主導のなかでこそ官僚は活かされるようです。

拙著に意味があるとすれば、インタビューに答えて下さった方々のお陰です。

肉声が原稿に乗り移っていく感覚に何度も襲われました。

それにしても当時の政治家や官僚たちは、個性がしっかりしていますね。

2011年6月(その5)

しばらくパソコンを修理に出していました。

だからというわけでもないのですが、三浦哲郎『木馬の騎手』(新潮文庫、1984年)を四半世紀ぶりに読みました。

わずか10数頁の短編「鳥寄せ」が心に残りました。

出稼ぎに行った父の予期せぬ最期、そして母の姿を思い浮かべながら、子供がとつとつと語ります。

さすがに短編の名手と思わせる悲話でした。

『忍ぶ川』にもまして、時代を超えるものを感じさせてくれます。

2011年6月(その4)

井上寿一「歴史書の棚 日中国交正常化交渉はなぜ成功したのか」(『エコノミスト』2011年6月21日号)におきまして、拙著『日中国交正常化――田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦』(中公新書、2011年)が書評されました。

同稿は、国分良成編『中国は、いま』(岩波新書、2011年)と拙著を書評しながら、現代日中関係を考察したものです。

この場をお借りして、深く御礼を申し上げます。

2011年6月(その3)

大平正芳記念財団の会合にお邪魔してきました。

政界、財界、官界、学界、新聞社などから約350人が集まり、没後31年を経てなお、大平の人徳を思わせます。

現在、第4巻まで刊行されている大平正芳/福永文夫編『大平正芳全著作集』(講談社、2010年~)をひもとくと、飾らない文体に人柄がにじむようです。

帰り際には財団のご好意で、拙著『日中国交正常化――田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦』(中公新書、2011年)を配布して下さいました。

昨年は、森田一/服部龍二・昇亜美子・中島琢磨編『心の一燈 回想の大平正芳――その人と外交』(第一法規、2010年)が配られたとお聞きしています。

関係各位に深謝申し上げます。

一昨年は、福永文夫先生の『大平正芳――「戦後保守」とは何か』(中公新書、2008年)が配布されたようです。

吉田茂財団が今年3月に解散してしまったこともあり、大平財団の存在はますます貴重なものになっていくのでしょうね。

2011年6月(その2)

少し前のことですが、北岡伸一『日本政治史――外交と権力』(有斐閣、2011年)を拝読いたしました。

1989年に出版された放送大学の教科書を復刻されるとともに、新たにコラムが多く執筆されています。

この本には、20年前の記憶があります。

北岡先生が1990、1年、京都大学法学部で日本政治外交史の集中講義を担当されたこともあり、刊行されたばかりの『日本政治史――外交と権力』(放送大学、1989年)を勉強いたしておりました。

講義後には、拙い質問にも丹念に答えて下さったことを覚えています。

あれから20年が流れたかと思うと、時の早さに言葉を失います。

2011年6月

 オーラル・ヒストリーの意義

拙著『日中国交正常化――田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦』(中公新書、2011年)に対して、何人かの方々から貴重なコメントをたまわりました。

この場をお借りして、深く御礼を申し上げます。

批評の多くは、インタビューやオーラル・ヒストリーについてでした。

今回の本では、諸先生方とご一緒させていただいたオーラル・ヒストリーが非常に有益でありました。

いくつかは刊行されていまして、「研究テーマ>共編――オーラル・ヒストリー」に挙げてあります。

外交面からのオーラル・ヒストリーには、4つぐらいの意義がありそうです。

第1に、公文書には残らないような人的関係や政策過程を再現でき、研究者が歴史を書くときの材料になります。

第2に、ジャーナリストやビジネスマン、学生など、研究者以外の目にも触れますので、外交史の知識を普及させます。

第3に、現役の官僚や政治家にとって、執務上の参考になりうると思います。

第4に、これは意図しておりませんが、結果的に日本外交の広報となる面もありそうです。


 歴史になっていない過去

拙著が対象とした時代については、完全には歴史になっていないという考え方も十分ありうると思います。

内外の調査や情報公開請求で主要な文書を入手しているとはいえ、中国側を含めて、史料に未公開の部分があるのは事実です。

史料がほぼ完全に開かれ、歴史となってから研究に着手するのが王道でしょうし、私もそのように感じています。

未公開の部分があるというデメリットには自覚的ですが、当事者から話をお聞きし、遠くない過去を再構成できるというメリットにも捨て難いものがあります。

先に述べたような意味で外交史には、現代的要請に応える役割もあるだろうと思います。

この点については、拙著『日中歴史認識――「田中上奏文」をめぐる相剋 1927-2010』(東京大学出版会、2010年)でも少し意識しました。


 公文書に残ること、残らないこと

史料が完全に公開されるとき、関係者の多くは他界していますでしょうし、そもそも、すべての出来事が公文書に記されるとは限らないのです。

『日中国交正常化』から例を挙げれば、田中角栄首相の「ご迷惑」スピーチについて、田中自身が翌日の会議で周恩来らに反論し、理解を得ています。

日本外務省記録にはあまり出てこない局面ですが、証言を得ることができました(151-153頁)。

周恩来が高島益郎条約局長を「法匪」と罵倒したという説についても、当事者に確かめておく必要があると思いました(151頁)。

そうでないと、不正確な伝聞が史実であるかのように定着してしまう可能性もあります。

細かなことかもしれませんが、流布された神話によって、周恩来へのイメージが左右されかねないところかと存じます。

公文書に残らない部分はインタビューを行っておかないと、復元したり、検証したりするのが難しくなるのかもしれませんね。


 保存期間

もう1つ付言しなければならないのは、「行政文書としての保存期間」が満了すると、廃棄される可能性があることです。

この点についても、『日中歴史認識』287-288頁などで触れておりまして、その文書の保存期間は1年ないし3年でした。

研究テーマによっては、30年ルールを信じて待ってみても、史料状況が必ずしも改善されるとは限らないようです。

とりとめもない文章になってしまいましたが、今後も試行錯誤を重ねていくことになりそうです。

2011年5月(その7)

現代日中関係史を共同研究で進めています。

おそらく最終となるであろう全体会合が2日間、週末に開催され、勉強させていただきました。

これから原稿を仕上げていく段階になりそうです。

ある財団からご支援を得ておりますので、リンクを貼っておきます。

会合を終えた夜、今春、大学に就職された方々などと集まる機会がありました。

大学をめぐる環境が厳しいなか、しかるべきところに迎え入れられるのは、この上なくうれしいことですね。

2011年5月(その6)

明治大学史資料センター『大学史紀要 第15号 三木武夫研究Ⅱ』(2011年3月)が興味深い内容になっています。

外交面では、竹内桂「三木・フォード会談(1975年8月)について」があり、そのほか三木睦子氏インタビュー、海部俊樹氏インタビュー、三木武夫年譜なども掲載されています。

明治大学史資料センター所蔵「三木武夫関係文書」のほか、フォード大統領図書館所蔵文書も用いられています。

大学に個人文書の受け皿があることの重要性をあらためて感じました。

スクール・アイデンティティの象徴的存在として、大学史料館は経営的にも欠かせないように思います。