Events 近況

2005年10月(その2)

拙稿「幣原喜重郎と戦後政治」(『人文研紀要』第55号、2005年10月)1-37頁、が公表されました。

幣原の首相期を軸としたものですが、1948年元旦の石橋湛山あて書簡なども、印象に残っています。

そのほかの史料なども含めて、いずれ書き改めたいと思います。

2005年10月

『読売新聞』10月14日夕刊の「気鋭新鋭」に、研究が紹介されました。

2005年9月

拙著『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』(有斐閣、2001年)が第4刷になりました。今回も、いくつか手を加えてあります。

2005年8月(その2)

中央大学のオープンキャンパスにて、お話しさせていただきました。

台風の直後にもかかわらず、大勢の高校生や父兄の方が、来て下さったようです。

2005年8月

靖国問題が、論争となっているようです。世論調査などによると、少なからず、首相の参拝に賛成の意見があるようです。重要なのは、賛否そのものよりも、その理由づけだろうと思われます。

おそらく、参拝賛成論は、3つに分かれるのでしょう。第1に、素朴に戦没者の霊をなぐさめて欲しいというもの。第2に、中国や韓国に批判されて参拝しないようでは、国家としての威信にかかわる、というもの。第3に、A級戦犯という考え方、つまり東京裁判そのもの、ひいてはサンフランシスコ講和を批判するもの。「東京裁判史観」や「自虐史観」の呪縛から解放されるべきだ、という考え方にも通じます。

これらの議論について、ここでとやかく言うつもりは、ありません。ただし、感情に訴えるような政治の手法は、一時的に求心力を高めても、最終的には成功しないと考えられます。やがて、そのツケは、自国に跳ね返ってくるはずです。

思えば、近代の日本は、イギリスやアメリカとの協調下で、中国やロシアに対処することを基調としたはずでした。それが、いつの間にか、中国のみならず、イギリスやアメリカとも対峙していきました。

靖国問題を突き詰めていくと、東京裁判やサンフランシスコ講和に行き着くようです。このため、アジアはもとより、欧米との関係にも、波及しかねないものと危惧されます。

いずれにせよ、この問題で、首相ごとにブレがあるのは、賢明ではありません。諸外国から言われる以前のことでもあり、国内の、少なくとも党内のコンセンサスを高める必要がありそうです。

これは、小泉首相の参拝是非というよりも、日本の根幹にかかわってくる問題なのでしょう。次期政権はもとより、ひいては日本の将来を見据えて、できれば諸外国とも共有できるような国民的コンセンサスを練り直していく。戦後60周年を、そんな年にするのは、不可能なのでしょうか。

なお、サンフランシスコ講和条約の受諾演説において、吉田首相は同条約を、「復讐の条約ではなく、和解と信頼の文書」だとしています。

2005年7月

拙稿”Shidehara Kijuro and the Supra-Party Diplomacy, 1950,”(『中央大学政策文化総合研究所年報』、第8号、2005年6月) pp. 171-187, が発行されました。

幣原喜重郎の超党派外交に関する史料紹介です。抜刷については、9月ごろに公表予定の2本と合わせてお送りしたいと思います。

2005年6月

拙稿「大学史料館」が、学内の通信誌『草のみどり』(第186号、2005年6月号)に掲載されました。PDF版にて、こちらに公開しておきます。

2005年5月

ある高校生向けの雑誌により、研究室の訪問を受けました。PDF版にて、こちらに公開しておきます。
出典は、『受験科情報誌Azest』2005年5月号(Z会高校コース会員向け情報誌)です。

2005年4月

拙稿「『田中上奏文』と日中関係」(中央大学人文科学研究所編『民国後期中国国民党政権の研究』中央大学出版部、2005年)が刊行されました。

同稿では、下記のように、誤植が残ってしまいました。

483頁7行目 (誤)情報局 (正)情報部

申し訳ないことに、抜刷はございません。その続編を準備しています。

2005年3月

若枝一憲述、服部龍二・瀬戸口勲編「新ODA大綱の策定」(『総合政策研究』、第12号、2005年)が活字になりました。

外務省の方に、2003年の新ODA大綱について、語っていただいたものです。本当は、その後の質疑応答が面白かったのですが、諸般の事情により、省略となりました。

私への抜刷の割り当ては、あまりありません。研究会などで、少しはお配りしました。

2005年2月

拙稿「幣原喜重郎の戦前と戦後―東京裁判を超えて―」(『中央大学論集』、第26号、2005年、1-15頁)が公表されました。

最晩年の幣原について、東京裁判とのかかわり、外務省の保全、対外認識、超党派外交などを論じたものです。

2005年1月

冬休みをアメリカですごしました。

成田空港では、アメリカ便について、「鍵をかけたまま荷物を預けた場合には、中身を確認するため、壊されるかもしれない」と言われました。アメリカの入管では、ビザなしでも指紋と写真をとられるなど、かなり厳しくなっています。

帰国してからは、中央大学主催のシンポジウムにて、討論者を務めさせていただきました。

2004年12月

来年度より、博士後期課程も担当させていただくことになりました。学部の授業担当も増えますので、かなり忙しくなりそうです。

2004年11月

拙稿「盧溝橋事件における国民政府外交部と冀察政務委員会―外交部档案『盧溝橋事件―本部與冀察当局商洽情形―』を中心に―」(『人文研紀要』、第51号、2004年、1-35頁)が公表されました。

5年前に台湾の外交部で入手した史料を紹介したものです。随分と時間を費やしてしまいました。

2004年10月

数年ぶりに日本国際政治学会に出席して来ました。今回は、歴史系の報告を中心に、全日程を拝聴しました。やはり学会からは、刺激を受けることが多いようです。

本来であれば、こうした主要な学会には、継続的に出席したいところです。が、なかなか時間がとれなくなりつつあります。

2004年9月

東アジア国際政治史研究会については、メールでのご案内となりました。

2004年8月

いくつかの企画に合わせた論文や報告に追われています。このまま今年の夏も終わってしまうのかと、いささか焦り気味です。

お誘いのあることはありがたいですし、勉強にもなります。ただ、本来の研究がおろそかになってしまっては、やはり本末転倒でしょう。

とはいえ、この種の依頼というのは、断りにくい筋から入ってくるもののようです。

2004年7月

学部1、2年のゼミが、『世界週報』第85巻第28号(2004年7月27日)に紹介されました。うれしいようでもあり、気恥ずかしいようでもあります。

以下、ゼミ生の方へ:同誌を5部ほど学部事務室に預けてあります。必要な方は取りに行って下さい。先着5名までは現物、それ以降は複写となります。

2004年6月

長らく外交史を研究していると、しばしば、現在の国際情勢が過去と二重写しにみえます。

アメリカ外交についていえば、ブッシュ政権の失速と、来るべき大統領選は、どことなく1970年代を彷彿とさせるかもしれません。当時のアメリカはベトナム戦争でつまずき、ニクソン政権下で、アジアにおけるプレゼンスを低下させ始めていました。

さらに、1970年代の後半になると、在韓米軍の撤退までをも唱えるカーター大統領が登場してきます。日本がアメリカに見捨てられる恐怖を感じ取った頃でもあります。

一方、発展の目覚ましい中国については、1920年代の後半とオーバーラップするところがあるかもしれません。当時の中国は、少しずつ不平等条約体制を脱しつつあり、アメリカはこれを好意的にみていました。日本は対米英関係に見切りをつけ、満州事変に突入していきます。

その教訓を一言でいうならば、日本は過剰に反応しすぎたのでしょう。格下とみなしていた途上国が台頭するとき、関係国は必要以上に反応してしまうのでしょうか。現在の中国脅威論をみても、日本はアジアとの横並びという発想に慣れていないのかもしれません。

対米関係を視野に入れつつ、大国化する中国にいかに対処するのか。その外交的課題は、何も今に始まったことではないのですね。

もっとも、このように考えてしまうこと自体、歴史の誤用という危険性を含むものでもありますが。

2004年5月

一昨年のワールドカップ以降でしょうか。韓国ブームと呼ばれて、久しいようです。一昔前であれば、芸能人やスポーツ選手が頻繁に日韓を行き来することなど、想像もできませんでした。

それにしても、大学関係者としては、気掛かりなことがあります。有力な大学の図書館でも、韓国語の文献があまり所蔵されていないことです。また、東洋史やアジア政治論といった講座では、どうしても中国が軸になるようです。

韓国ブームが上滑りにならなければよいのですが。