Events 近況

2004年3月下旬

杭州の浙江大学にて、歴史認識をめぐる会議に出席してきました。

会議終了後には、紹興に寄りました。紹興酒の他に、魯迅の生誕地として知られるところです。

台湾の総統選については、多くの方が、香港発の衛星放送などでフォローしているようでした。

2004年3月中旬

拙稿「明治大正期の幣原喜重郎」(『中央大学論集』、第25号、2004年)が刊行されました。
通史的な記述と、平易な文体を試みようとしてあります。

2004年3月上旬

(承前)とりわけ書評では、専門から遠いような場合には、大いにためらうものです。せっかくの労作に対して、間違ったことを書いてしまわないかと思えば、拝辞したくもなってしまいます。

他方で、誰も書評を執筆しないと、そのまま作品が埋もれてしまう可能性もあります。一般に著者としては、批判されるよりも、無視される方がつらいのかもしれません。

2004年2月下旬

3月末締め切りの原稿が3本ほど重なってしまい、焦り気味です。
内訳は、共著、史料紹介、書評となっています。筆が荒れてこないかと危惧しています。(つづく)

2004年2月中旬

拙著『国際政治史の道標―実践的入門―』(中央大学出版部、2004年)の再校を終えました。学界動向や史料調査などに関する拙稿をまとめたものです。

このような形で刊行することには、ためらいの方が大きい、というのが率直なところです。とはいえ、少しでもお役に立つところがあればと愚考しています。4月上旬に刊行予定です。

2004年2月上旬

長く生きていると、意外なこともあるものです。雑誌『外交フォーラム』のゼミ訪問取材を受けました。ついつい余計なことを話していなければよいのですが。

同誌は2月8日に発売だそうです。いかに少人数の(マイナーな?)ゼミかということが、思わぬ形で発覚しそうです。

2004年1月下旬

(承前)書店で本を買うのであれば、まず著者の略歴を一瞥し、さらに目次やあとがき、文献目録などで本の成り立ちを確認するはずです。

これに比べれば、ホームページでは、ほとんどの場合が匿名であり、リソースも検証不能となっています。そのようなホームページに依拠することは、あまりにもリスクが高すぎるのです。

しかし、これがなかなか理解してもらえないようです。その一因は、どうやら読書の習慣が薄れてきたことにもありそうです。

2004年1月中旬

(承前)現代人は、過去を直接に知ることができません。そうである以上、何かを媒介として学ぶことになります。現代人が理解している歴史とは、すべて何らかのフィルターを通したものです。

E・H・カーなどの指摘を待つまでもなく、歴史の記述には判断が含まれています。そこで、「歴史書を読む場合には、まず歴史家を研究せよ」ということになるわけです。同様なことは、例えば、政治理論などにもあてはまるでしょう。(つづく)

2004年1月上旬

年末年始には関西に出張するなど、いろいろな方とお会いすることができました。大学の教員が集まると、まれに学生のインターネット使用が話題になります。

つまり、ゼミやレポートの課題を本で調べるのではなく、怪しげなホームページを参照して来ることが多くなっているようなのです。

罪の意識がないだけに、なぜそれが好ましくないのかをご説明することから始めなくてはなりません。これがなかなか容易ではないようです。(つづく)

2003年12月下旬

早いもので、2003年も暮れようとしています。今年最大の事件といえば、やはりイラク戦争でしょう。イラク復興の難航を目の当たりにして、ようやくブッシュ政権も国際協調の必要性を悟りつつあるのでしょうか。

他方で、北朝鮮問題をめぐる日本外交の蹉跌も明らかになりつつあるようです。その遠因をたどっていくと、どうやら昨年の小泉訪朝時に、アメリカとの提携を軽視していたことに行き着くようです。

日本はもとより、唯一の超大国といわれるアメリカですら、一国だけでやれることは限られている。そんな当たり前のことを思い出させてくれたのが、2003年だったのかもしれません。

 2003年12月中旬

今年刊行された本から、3冊ほど挙げてみたいと思います。

研究書としては、ヴィクター・D・チャ(船橋洋一監訳、倉田秀也訳)『米日韓 反目を超えた提携』(有斐閣、2003年)が新鮮でした。日韓「疑似同盟」というモデルは、これから定着していくのでしょうか。

通史では、井上寿一『日本外交史講義』(岩波書店、2003年)を得ました。単著による日本外交史の通史としては、細谷千博『日本外交の軌跡』(日本放送出版協会、1993年)以来となります。平易な文体ながら、最新の成果を盛り込もうという意気込みが伝わってきます。戦後が次第に長くなるにつれて、戦前からの通史は今後なかなか現れなくなるのでしょう。

自伝や評伝の類では、原彬久編『岸信介証言録』(毎日新聞社、2003年)が印象に残っています。

2003年12月上旬

(承前)これらの選択肢は、一長一短です。第1の選択では、学界に地位を得たとしても、専門家しか読まないような本を一生書き続けることになります。第2の選択では、基礎研究をおろそかにする危険性もありますが、社会的な名声がそれを補ってくれます。

どんなに地味で生真面目な学者でも、第2の選択で読者層を拡げたいという誘惑に、一度は駆られるのではないでしょうか。しかしながら、長く読み継がれる名著というのは、やはり第1の選択から生まれるのではないかという気もします。

真の悲劇は、第1の選択をしたつもりでも、一定の水準を保てなくなることかもしれません。

2003年11月下旬

少し前のことになりますが、ある高名な政治学者が6月号の『書斎の窓』に興味深い御玉稿を寄せています。

それによりますと、研究者には「30代の危機」があるといいます。すなわち、日本の学界には研究者を一定の領域に閉じこめるようなメカニズムがあるため、新しい分野に挑戦する機会を逸してしまいがちだというのです。そのため、30代に訪れる転機を逃さず、新しい課題に移るべきだと記されています。

実感としては、これとは別に、いわば「30代の岐路」ともいうべき2つの選択肢があるように思えます。第1の選択肢はいうまでもなく、今まで通りに質の高い論文だけを追求することです。第2の選択肢は、これに飽きたらず啓蒙的な文章を増やし、時にはマスコミにも登場することでしょう。(つづく) 

2003年11月中旬

外務省の方を授業にお招きし、新ODA大綱の策定について、講演していただきました。

また、国Ⅰ(外務省)合格者と外務省専門職合格者の方々にも、お話ししてもらいました。やはり、この種の試験には、コツのようなものがあるようです。

なお、私自身はこの間、中央大学国際関係研究会にて報告させていただきました。

2003年11月上旬

某局のテレビ番組『白い巨塔』が話題になっているようです。一見すると、複雑な医学界の人間模様を描いたようにもみえます。

しかし、基本的な構図は、むしろ単純なようです。つまり、人間味のある学者肌と非情なる野心家という2人の医者の葛藤というものです。ベタな設定といってもよいでしょう。どちらが医学部に残るかは、自明に思えます。

それはともかく、大衆を惹き付けるには、こうした分かりやすい構図が不可欠なのかもしれません。

 2003年10月下旬

 総選挙の足音が近づいてきました。あえて命名するならば、「小泉・安部」対「菅・小沢」の「二枚看板対決」選挙とでもいうのでしょうか。とりわけ、安部幹事長の抜擢が注目されています。

しかしながら、そのことは、人事が硬直したことの裏返しでもあります。本来、すべての主要な人事は実力主義であるべきです。かつて吉田茂が佐藤栄作や池田勇人を抜擢した際に、佐藤や池田は駆け出しの政治家にすぎませんでした。追放解除された岸信介の出世も非常に早いものでした。ちなみに、54歳で首相となった田中角栄は、中曽根康弘と同じ1918年生まれでした。中曽根と同様に引退勧告を受けている宮沢喜一は1919年生まれです。

万年与党の人事というものは、実力や政策ではなく、当選回数至上主義に陥りやすいものです。そのため、当選回数の多い二世が幅を利かせることになります。このような悪癖が定着すれば、政治家は小粒になっていくでしょう。

そのことは同時に、政治家への参入が難しくなることを意味しています。こうなると、政界以外からの立候補は、タレントや元スポーツ選手などに限られてしまいます。

果たして、一党優位制は今後も続くのでしょうか。それとも、政権交代が可能な二大政党制に近づきつつあるのでしょうか。あるいは、憲法改正による首相公選制が望ましいのでしょうか。国民的な議論をみてみたいものです。

2003年10月中旬

(承前)その後、佐藤内閣時に沖縄が返還されることも、よく知られています。だからといって、そのような沖縄返還が自明であったことにはならないでしょう。

歴史をみる際には、必然性や不可避性という思い込みに陥りやすいものです。しかし、それは現代という高みから、過去を見下ろしたものにすぎません。後知恵といってもよいでしょう。さらに、そのような歴史観は、現在をみる上でも、無意識のうちに影を落とします。

歴史をながめる場合には、結果だけでなく、その過程にも目を向けたいものですね。

2003年10月上旬

ロバート・エルドリッヂ『沖縄問題の起源』(名古屋大学出版会)について、著者を本学にお招きした上で、大学院生などと討論する機会がありました。

これとの関連で想起させられるのは、一般に、戦後の日本外交が単なる対米追従とみなされがちなことです。しかし、そのような場合、基礎となる史料や研究書はあまり参照されないうようです。対米追従にすぎないと嘆くのは、基礎文献を参照してからでも遅くはありません。

同書によれば、吉田茂や外務省、さらには「天皇メッセージ」などが相当な役割を果たし、沖縄の潜在主権を引き出していったとされるようです。そのような観点から、アメリカ人の著者は、日本外交を評価しています。また、沖縄問題をめぐるアメリカ側政策決定者の多様性を知るだけでも、一読の価値はあるのでしょう。(つづく)

2003年9月下旬

拙稿「東アジア国際政治史研究の可能性」(『歴史学研究』第779号)の抜刷を発送しました。部数が少ないため、同稿に引用させていただいた方などを中心としています。以前、拙稿「ロンドン海軍軍縮会議と日米関係」をお送りした方には、今回あまりお配りできませんでした。

2003年9月中旬

拙稿「ロンドン海軍軍縮会議と日米関係―キャッスル駐日米国大使の眼差し―」(『史学雑誌』第112編第7号)の抜刷を発送しました。その際に、ごく一部の方には、雑文「幣原没後」(『創文』第454号)を冊子ごと同封させていただきました。