Events 近況

2003年11月中旬

外務省の方を授業にお招きし、新ODA大綱の策定について、講演していただきました。

また、国Ⅰ(外務省)合格者と外務省専門職合格者の方々にも、お話ししてもらいました。やはり、この種の試験には、コツのようなものがあるようです。

なお、私自身はこの間、中央大学国際関係研究会にて報告させていただきました。

2003年11月上旬

某局のテレビ番組『白い巨塔』が話題になっているようです。一見すると、複雑な医学界の人間模様を描いたようにもみえます。

しかし、基本的な構図は、むしろ単純なようです。つまり、人間味のある学者肌と非情なる野心家という2人の医者の葛藤というものです。ベタな設定といってもよいでしょう。どちらが医学部に残るかは、自明に思えます。

それはともかく、大衆を惹き付けるには、こうした分かりやすい構図が不可欠なのかもしれません。

 2003年10月下旬

 総選挙の足音が近づいてきました。あえて命名するならば、「小泉・安部」対「菅・小沢」の「二枚看板対決」選挙とでもいうのでしょうか。とりわけ、安部幹事長の抜擢が注目されています。

しかしながら、そのことは、人事が硬直したことの裏返しでもあります。本来、すべての主要な人事は実力主義であるべきです。かつて吉田茂が佐藤栄作や池田勇人を抜擢した際に、佐藤や池田は駆け出しの政治家にすぎませんでした。追放解除された岸信介の出世も非常に早いものでした。ちなみに、54歳で首相となった田中角栄は、中曽根康弘と同じ1918年生まれでした。中曽根と同様に引退勧告を受けている宮沢喜一は1919年生まれです。

万年与党の人事というものは、実力や政策ではなく、当選回数至上主義に陥りやすいものです。そのため、当選回数の多い二世が幅を利かせることになります。このような悪癖が定着すれば、政治家は小粒になっていくでしょう。

そのことは同時に、政治家への参入が難しくなることを意味しています。こうなると、政界以外からの立候補は、タレントや元スポーツ選手などに限られてしまいます。

果たして、一党優位制は今後も続くのでしょうか。それとも、政権交代が可能な二大政党制に近づきつつあるのでしょうか。あるいは、憲法改正による首相公選制が望ましいのでしょうか。国民的な議論をみてみたいものです。

2003年10月中旬

(承前)その後、佐藤内閣時に沖縄が返還されることも、よく知られています。だからといって、そのような沖縄返還が自明であったことにはならないでしょう。

歴史をみる際には、必然性や不可避性という思い込みに陥りやすいものです。しかし、それは現代という高みから、過去を見下ろしたものにすぎません。後知恵といってもよいでしょう。さらに、そのような歴史観は、現在をみる上でも、無意識のうちに影を落とします。

歴史をながめる場合には、結果だけでなく、その過程にも目を向けたいものですね。

2003年10月上旬

ロバート・エルドリッヂ『沖縄問題の起源』(名古屋大学出版会)について、著者を本学にお招きした上で、大学院生などと討論する機会がありました。

これとの関連で想起させられるのは、一般に、戦後の日本外交が単なる対米追従とみなされがちなことです。しかし、そのような場合、基礎となる史料や研究書はあまり参照されないうようです。対米追従にすぎないと嘆くのは、基礎文献を参照してからでも遅くはありません。

同書によれば、吉田茂や外務省、さらには「天皇メッセージ」などが相当な役割を果たし、沖縄の潜在主権を引き出していったとされるようです。そのような観点から、アメリカ人の著者は、日本外交を評価しています。また、沖縄問題をめぐるアメリカ側政策決定者の多様性を知るだけでも、一読の価値はあるのでしょう。(つづく)

2003年9月下旬

拙稿「東アジア国際政治史研究の可能性」(『歴史学研究』第779号)の抜刷を発送しました。部数が少ないため、同稿に引用させていただいた方などを中心としています。以前、拙稿「ロンドン海軍軍縮会議と日米関係」をお送りした方には、今回あまりお配りできませんでした。

2003年9月中旬

拙稿「ロンドン海軍軍縮会議と日米関係―キャッスル駐日米国大使の眼差し―」(『史学雑誌』第112編第7号)の抜刷を発送しました。その際に、ごく一部の方には、雑文「幣原没後」(『創文』第454号)を冊子ごと同封させていただきました。

2003年9月上旬

拙稿「東アジア国際政治史研究の可能性」が第779号の『歴史学研究』に掲載されました。小特集「近現代東アジアにおける中華民国」に寄せたものです。拙稿はともかく、その前後の論文には、一読の価値があります。

小特集に向けた会合などを通じて、中国史家のお話しを拝聴できたのも幸いでした。このような機会は、意外に少ないのではないかという印象です。それだけに、小特集を企画して下さった方々にも、深謝の意を表したいと思います。

2003年8月下旬

野党合併への動向がいささか気になっています。合併の内実は、民主党による自由党の吸収といってよいのでしょう。

それにしても、小沢一郎氏は随分と冴えなくなってしまったようにみえます。自民党を割って新生党の代表幹事に就任したのが、ちょうど10年前でした。その新生党に日本新党、公明党、民主党を加えて新進党を結成した頃が絶頂期でしたでしょうか。対外政策では、華々しく「普通の国」を掲げました。

しかし、やがて羽田孜氏や旧公明党グループと離反し、小沢氏の勢力はやせ細っていきます。新進党の解党を決めたのも小沢氏でした。今回の民主党と自由党の合併によって、「小沢の乱」ともいうべきものは一段落するのでしょうか。改めて両党の合意文書を読んでみると、政策やマニフェストは民主党のものを継承すると簡単に記されているに過ぎません。

もっとも、小沢勢力の衰退とは裏腹に、「普通の国」という議論は浸透していった感があります。イラク特措法の経緯を想起すれば分かるように、「普通の国」という理念は、むしろ自民党の側に咀嚼されたといえそうです。総選挙に勝つためとはいえ、イラク特措法に反対した民主党に小沢氏が吸収されるというのは、何とも皮肉なめぐり合わせといえるでしょう。

与野党間における選挙の争点は何になるのでしょうか。政党名からして、自由党と民主党が合併して自由民主党と争うというのは、対抗軸がみえにくいようです。村山内閣の下で社会党が日米安保の容認に踏み切った頃から、内外政における与野党間の差異は分かりにくくなっています。

それでもやはり、次の総選挙で最大の争点は、経済政策になるのでしょうか。この機会に、是非とも対外政策も十分に議論して欲しいものです。安易な類推は禁物ですが、戦前の政党政治は対外政策への統制と国民の信頼を失うことから崩壊していったという経緯もあります。

また、所詮アメリカに追従するしかないのかという無力感がこれ以上広まっていくことも危険に思えます。だからといって、日米安保体制からの離脱や核武装が有力な選択肢だとも到底考えられません。

強いていえば、外交面における民主党の看板は、国連中心主義になるのでしょうか。しかし、国連中心主義とは岸内閣以来、自民党も唱えてきたことです。そこに生命を吹き込むには、国連改革案などを含む青写真を提示せねばならないはずです。最大の難関は、国連中心主義と対米協調が抵触した際の処方箋でしょうか。

「普通の国」と並ぶ小沢氏のもう一つの目標は、二大政党制でありました。ですが、細川内閣の選挙制度改革が中途半端に終わったためもあり、こちらは遅々としています。無党派層という言葉が象徴するように、国民の政治離れも深刻です。

今度の総選挙を前に民主党と自由党が合併し、社民党や共産党が苦戦していることは、政権交代を可能とする二大政党制への好機といえます。しかし、そのためには、野党間における本格的な政策の詰めが欠かせません。野党とは本来、新たなる政策の土俵を築き、政権交代の素地を養っていくはずのものです。

来るべき総選挙に向けて、分かりやすく対抗軸が示されることを願いたいものです。

2003年8月中旬

拙稿「ロンドン海軍軍縮会議と日米関係―キャッスル駐日米国大使の眼差し―」が、『史学雑誌』第112編第7号に掲載されました。幣原喜重郎外相、吉田茂外務次官、キャッスル駐日米国大使の3者関係を軸に、ロンドン会議を論じたものです。

また、同号では、拙編『満州事変と重光駐華公使報告書―外務省記録「支那ノ対外政策関係雑纂『革命外交』」に寄せて―』(日本図書センター、2002年)の新刊紹介もしていただき、大変感謝しております。

2003年8月上旬

ようやく前期分の採点を終えました。前期は、ここ数年で最も忙しい時期でした。

多忙の際に時間を有効に使うには、朝が大事だといわれます。ですが、大学の仕事を終えてから深夜まで原稿を書いていたりすると、朝が一番つらいということになりがちです。

研究室でじっくりと文献を読み、週末には研究会や学会に出席する。そんな当たり前の研究生活が、難しくなりつつあるようです。

2003年7月下旬

拙稿「東アジア国際政治史研究の可能性」の校正を終えました。『歴史学研究』9月号の特集「近現代東アジアにおける中華民国」に寄せたものです。私の担当は、日中関係でした。

2003年7月中旬

拙著『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』(有斐閣、2001年)が第3刷になりました。今回も、数カ所を訂正してあります。

2003年7月上旬

雑文「幣原没後」が『創文』第454号に掲載されました。抜刷はありませんので、研究会の際にでも冊子をお配りしたいと思います。

2003年6月下旬

学部創設10周年に、下記のような拙文を寄せました。

「本学に赴任してから1カ月あまりが過ぎました。総合政策学部には何かと積極的な学生が多いようで、その勢いにしばしば圧倒されています。また、実学色の強い学部というのも大きな特徴のようです。 

そんな戸惑いもあり、先日、3つの講義科目でアンケートを実施してみました。学生のニーズを把握するためです。アンケート結果をみると、いろいろと思案させられます。とりわけ困惑してしまうのは、回答内容が二分されるような場合です。 

例えば、外交史のアンケートでは、「歴史を勉強してこなかったので、あまり脱線しないで欲しい」という意見が少なくありませんでした。しかし同時に、「他では聴けないような話しをして欲しい」という意見も多いのです。 

学際的な学部だけに、どの程度の基礎知識があり、どの分野に比重を置くかといったことに、個人差が大きいためかもしれません。上記のような場合には、アウトラインをおさえつつも、専門家でなければ知り得ないような内容をちりばめていくべきなのでしょう。いずれにせよ、少しずつでも授業内容を改善していきたいと考えています。 

なお、大学院でも、3、4名の院生を指導させていただいています。内部進学と外部との比率は、半々というところでしょうか。教員と学生の距離が近いという良き伝統は、大学院でも同じのようです。」

2003年6月中旬

拙稿「幣原没後」と題する雑文の校正を終えました。『創文』6月号に掲載予定です。エッセー風のものとしては、『書斎の窓』以来となります。

 2003年6月上旬

拙稿「ロンドン海軍軍縮会議と日米関係―キャッスル駐日米国大使の眼差し―」の再校を終えました。研究ノートとして、『史学雑誌』第112編第7号に掲載予定です。

ロンドン会議期の日米関係について、キャッスル駐日米国大使と幣原喜重郎外相、および吉田茂外務次官の3者関係を軸に論じてあります。

2003年5月下旬

ProQuestの新聞データベースをトライアルしてみました。以前、国会図書館でNew York Times紙をマイクロフィルムでみていた頃とは、隔世の感があります。また、Washington Post紙に至っては、おろらく、国内で戦前のものを揃えているところはなものと思います。

その点、上記のデータベースは、古い英字新聞などを調べるのに便利です。もっとも、大学図書館などで過去の新聞データベースまで契約しているところは、ほとんどないようです。

2003年5月中旬

学部や大学院のゼミというのは、学生さんの性格が表れるようです。予習を十分にしていてもなかなか発言しない方もいれば、さほど予備知識がなくても自分の関心や体験に引き付けて上手に話す方もいます。

私の場合、ゼミでは3つのコメントを用意するように勧めていますが、肝心なのは、議論の流れの中で主体的に発言する勇気だと思います。こちらから当てないようにしているのは、指名されるのを待つようになってしまうためです。

2003年5月上旬

今年度は4つのキャンパスで教えているため、電車での移動時間が長くなっています。

かつて日本を訪れた外国人の多くは、満員電車でも読書を欠かさない日本人の勉強ぶりに驚かされたそうです。

しかし今では、車中の主役は携帯電話になってしまいました。