Events 近況
2003年1月中旬
毎年恒例ですが、年末年始に書店へ足を運ぶと、『○○年、日本経済はこうなる』式の本が平積みになっているのをみかけます。こうした本が注目されるのは、長引く不況のためでもあるのでしょう。
経済の低迷が続くと、とかく内向きになりがちです。近年、地方公務員に憧れる学生が増えているのも当然でしょう。内向きになるのはやむを得ないにしても、「経済が逼迫しているのだから国際貢献どころではない」と考えるような傾向が強まりつつあるとすれば、やや短絡的かもしれません。日本が資源のない島国である以上、その存立が対外関係に依存していることは、食卓ひとつをみても明らかです。
あらゆる国家は盛衰から自由ではないのですから、混迷の時代にこそ、国力と平和を維持し存在感を示すような外交の在り方に思いをはせてみたいものです。そういえば、かつて帝国日本の崩壊後には、戦後賠償を経済進出に結び付けるような発想がありました。
2003年1月上旬
元旦に「しっかりとした研究を残そう」と思うようになってから、早いもので十数年が過ぎました。当初は何も分からず無我夢中でやってきましたが、優れた研究とは何なのか、おぼろげながら分かりかけてきたような気がしています。一言でいえば、「普遍性、独自性、文章力」ということでしょうか。
ここでいう普遍性とは、周辺領域の研究者などを含めて、多くの方々に重要性を認めていただけるような分野に問題を設定していることです。とっかかりは小さな事でも、それをどこまで一般化できているかということでもあります。
また、独自性には解釈と史料の両面があるはずです。どちらか一方が欠けても、影響力は半減するでしょう。
文章力にも2つの面があります。つまり、文章自体の上手さと、全体を構成する力です。啓蒙書に文章力が求められるのは当然ですが、専門書でも相当に重要です。独り善がりで下手な文章だと、いかに内容が良くても、通読してはもらえないと考えるべきでしょう。
これらはすべて、自戒にほかなりません。研究者を志した以上、だれもが不可欠だと認めざるを得ないような分野において、新らしい学界の基準を1つぐらいは築いてみたいものです。
2002年12月下旬
今年1年を振り返ると、対外関係では韓国や北朝鮮との間で進展があった年でした。北朝鮮との関係は現在でも流動的ですが、1つだけハイライトを挙げるとすれば、9月に史上初の日朝首脳会談が開催されたことになるのでしょう。北朝鮮政府からは、拉致問題での安否確認と謝罪がなされ、核査察受け入れやミサイル発射凍結無期延長、不審船取り締まりといった安全保障でも成果があったようです。
一方、韓国との関係では、ワールドカップ日韓共催がありました。もっとも、ワールドカップでかえって韓国が遠のいたと感じた方もいたようです。韓国では共催という意識があまりなく、スタジアムでは日本の対戦相手を露骨に応援する光景すらみられたというのです。ですが、過去の経緯に鑑みれば、韓国人が突如として日本代表を応援してくれるとは考えにくかったはずです。
だからといって、日韓関係の将来を過度に悲観することもないように思います。そもそも、日韓両国が協力して何か1つのことを成し遂げるなど、歴史上ほとんど空前のことなのですから。後年、「やはりワールドカップ共催を節目に日韓関係が深化していたのだ」と思える日が訪れるか否かは、むしろ今後にかかっているのでしょうね。
2002年12月上旬
本年も残りわずかとなりました。
今年刊行された学術書では、武田知己『重光葵と戦後政治』(吉川弘文館)、樋口秀実『日本海軍から見た日中関係史研究』(芙蓉書房出版)、簑原俊洋『排日移民法と日米関係―「埴原書簡」の真相とその「重大なる結果」―』(岩波書店)などが印象に残っています。
30代前半と非常にお若い方々の活躍が目立った年でもありました。少し残念なのは、こうした本格的な学術書が、新聞などの書評であまり取り上げられないことです。
それにしても、1年を振り返ろうとすると学術書が思い起されるのは、研究者の悪癖ともいうべきでしょうか。
2002年11月下旬
ようやく拙編『満州事変と重光駐華公使報告書―外務省記録「支那ノ対外政策関係雑纂『革命外交』」に寄せて―』(日本図書センター、2002年)を発送し終えました。 このような史料に対する評価は様々でしょう。解題にも記しておいたように、重光報告書がリットン調査団への抗弁を想定しているだけに、全てを鵜呑みにはできません。 だからといって、重光報告書が帝国主義の産物としてのみ評価されるとすれば、やや早計かもしれません。日中の衝突を未然に防ごうと現地で奮闘したのは、他ならぬ重光駐華公使でありました。 そもそも、自国の行為を正当化するのは、外交官の責務でもあります。その際には、国際法が有力な手段となるわけです。このため重光報告書は、条約的根拠からの分析という視角を提供してくれます。しばしば研究者の盲点となる部分だろうと思います。 いずれにせよ、これによって助手時代からの宿題を終えたことになります。正誤表はこちらに掲載しておきました。その他に何かお気付きの点がありましたら、是非とも御一報下さい。
【付記】拙編著を謹呈させていただいた先生方から、同書へのコメントを数通いただきました。礼状ということを差し引いても、重光に関心のある方は多いと思われます。世代別でいうと、この分野を長年研究されてきた方々には、「重光というのは実に分かりにくい」という印象のようです。また、戦後外交から研究を始めた若手の研究者からは、「重光を足掛かりに戦前・戦後の連続―非連続を一度は考えてみたい」といったご感想が少なくありませんでした。
2002年11月中旬
久しぶりに神戸に行って来ました。大震災から8年近くが過ぎ、傷痕を目の当たりにすることは稀になったようです。
2002年11月上旬
「戦間期の東アジア国際政治」研究会が2年以上を経過しました。当初は半年も続けば上出来だろうと思っていたのですが、意外に多くの方が参加して下さっています。といっても、毎回10名前後ですが、この分野もまだ捨てたものではないようです。唯一残念なのは、遠方の方が報告して下さる際に、旅費をお支払いできないことです。
2002年10月下旬
拙編『満州事変と重光駐華公使報告書―外務省記録「支那ノ対外政策関係雑纂『革命外交』」に寄せて―』(日本図書センター、2002年)が刊行されました。史料集だけに、ミスがないことを祈るような気持ちです。
2002年10月中旬
拙著『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』(有斐閣、2001年)に対する後藤春美先生の書評が、『史学雑誌』(第111編第9号)に掲載されました。日英関係を長年研究された方ならではのもので、大変感謝しております。それにしても、自著に対する書評を読むというのは、出来の悪い学生が成績表をこっそり開いてみるようなもので、心臓には悪そうです。
2002年10月上旬
『外交史料館報』の第16号が送られてきました。特に惹き付けられたのは、昨年来、外交史料館で公開されている「茗荷谷研修所旧蔵記録」に関する記事でした。
この外務省研修所は占領期に文京区の茗荷谷に設置されたもので、行き場を失った興亜院、大東亜省、拓務省、内務省などの文書が運び込まれたようです。これだけ大部の文書が他の省から移管されて公開に至るのは、「海軍省等移管南方軍政関係史料」(『外交史料館報』、第6号、1993年を参照)以来でしょうか。
なお、外務省研修所は既に相模原市へ移されており、残された敷地と建物は拓殖大学文京キャンパスの一角となっています。
2002年9月下旬(その2)
拙編『満州事変と重光駐華公使報告書――外務省記録「支那ノ対外政策関係雑纂『革命外交』」に寄せて』(日本図書センター、2002年)の念校を終えました。10月25日に刊行予定です。
2002年9月下旬
NHKに「その時歴史が動いた」という番組があります。映像を豊富に交えながら歴史の決定的瞬間を振り返ろうというもので、私も時々みています。もっとも、ドキュメンタリー物では、しばしばナレーションとは異なる映像が転用されます。当然のことながら、制作者の描くシナリオの全てが映像で見つかるわけではないからです。
この点では、「その時歴史が動いた」も例外ではないようです。例えば、9月18日に放映された「ヒトラー情報 日本を揺るがす~『真珠湾』へのもう一つの道~」には、1941年12月にドイツ軍がロシア戦線から撤退する場面があります。しかし、番組ホームページによれば、この映像は1943年以降のものであり、1941年の段階ではドイツ兵は「きちんとした防寒服を装備していません」が、「ここではイメージを優先して使用しております」といいます。このような「イメージ優先」が少なくとも3箇所に使われているそうです。
2002年9月中旬(その2)
拙編『満州事変と重光駐華公使報告書――外務省記録「支那ノ対外政策関係雑纂『革命外交』」に寄せて』(日本図書センター、2002年)の再校をようやく提出しました。助手時代からの宿題を終えたような感じです。
10月下旬に刊行予定ですが、実際にはもう少し遅れるかもしれません。出版状況が厳しいなかを、2,800円と安価にして下さっています。
2002年9月中旬
北朝鮮との歴史的会談が目前に迫っています。会談自体もさることながら、マスコミの報道が少しばかり気掛かりです。というのも、拉致問題に焦点を絞りすぎており、しかも性急に成果を求めるような論調のものが少なくないためです。これを真に受けると、拉致問題が直ちに解決されなければ小泉訪朝は失敗だったと受け止められかねません。
2002年9月上旬
拙稿「幣原喜重郎と20世紀の日本」(『書斎の窓』、第517号、2002年、19-23頁)が公表されました。幣原喜重郎の生涯をわずか5頁に凝縮した小品に過ぎないものです。ちなみに、『書斎の窓』は有斐閣の広報誌です。同稿には抜刷がないため、お配りすることができません。
2002年8月下旬
昨年度のゼミ生が書いた卒論を読み返してみました。概していえば、卒論としては悪くない水準だったと思います。時代を反映してか、論争的なテーマに敢えて取り組もうとする方もいました。そのようなテーマを選んだ場合、どんなに文献を読んでも腑に落ちないことがあるようです。それもそのはずで、真実は1つと割り切れないことが歴史研究では少なくないのです。史料状況によっては、最終的な結論を留保せざるを得ないこともあるでしょう。同じ謎解きのようにみえても、推理小説とはここが異なるのですね。
2002年8月中旬
とあるサッカー選手の欧州移籍が話題になっているようです。ワールドカップが日本で開催されたこともあり、ファンタジスタという言葉は市民権を得たようです。ここでいうファンタジスタとは、想像力あふれるプレーによって、観客はもとより相手チームをも魅了してしまうような選手のことを指すのでしょう。
この言葉を耳にすると、ふと「昨今の学界にはどんなファンタジスタがいるのかな」と思ってしまうことがあります。かつてであれば、丸山真男や岡義武の作品が、研究分野を越えて多くの人々を魅了したことでしょう。丸山真男『現代政治の思想と行動』(未來社、1964年)は、私の持っている1989年版で第139刷となっています。また、岡義武『山県有朋』(岩波書店、1958年)は、新書でありながら評伝の最高傑作といわれます。
しかし、研究領域がますます細分化される現代では、この本であれば誰もが読んでいるということが稀になりました。学界にはファンタジスタが生まれにくくなっているのかもしれません。
2002年8月上旬
齢を重ねるごとに時間の経過は早くなるといわれます。日頃、内外の雑務に追われてばかりいる間は、そんなことを感じる余裕もないでしょう。ですが、夏休みのようにまとまった時間が得られると、「そういえば学生の頃はのんびりしていたものだ」と思い返します。最初の著作に10年かかったことを思えば、研究書をあと何冊書けるのだろうかと考えてしまいます。人生の時間が無限にあるはずもなく、研究者としての時間はさらに限られているのですね。
2002年7月下旬
『東洋協会調査資料』全7巻(日本図書センターより近刊)のパンフレットに下記のような推薦文を寄せました。
「華北分離工作が本格化する直前の昭和10年4月、拓殖大学の経営母体である社団法人東洋協会は調査部を新設した。以来、東洋協会調査部は同年6月から昭和18年5月までの8年間、立て続けに全51輯の調査資料を刊行している。資料の刊行された昭和10年代は紛れもなく大きな岐路となる時代であり、そこには外務省や陸軍当局をはじめとして、多彩な情報源が活用されている。
注目すべきは調査対象の包括性であろう。中国の内外政や国防・経済はもとより、満州国、朝鮮、台湾、モンゴル、ソ連、海南島といった地域が網羅されている。もう1つの特徴は速報性である。一例を挙げれば、第26輯『蘆溝橋事件の経過概要』は事件発生の直後に刊行されており、臨場感にあふれる。
そのためもあり、全ての資料と同様、『東洋協会調査資料』にも歴史的な限界があるのは無理からぬことであろう。しかしそれだけに、時局認識を生々しく伝えてくれる利点は大きい。この点がしばしば研究者の盲点となるからである。巻末の「東洋時事日誌」も有益となる。」
2002年7月中旬
国際教育情報センター主催の第2回日欧歴史教育会議に参加してきました。今回対象となった時期は、19世紀後半から第1次世界大戦まででした。会議ではヨーロッパから歴史家や教育関係者を5、6名ほどお招きし、日本側からは政治史や経済史といった各分野の専門家が報告しました。その上で、諸外国での歴史教育や教科書の記述を含めて、日本の姿をどのように世界に伝えていくべきかといったことが話し合われました。
私に割り当てられた課題は、当該期の東アジア国際政治でした。私としては、今まで研究したことのない時期だけに拝辞したかったのですが、最終的には引き受けさせていただきました。当該期に限らず外交史がいかに下火となっており、また、自分の研究領域が歴史研究の全体からみればいかにちっぽけなものかということを再認識できただけでも、出席した甲斐がありました。