Events 近況

2002年8月上旬

齢を重ねるごとに時間の経過は早くなるといわれます。日頃、内外の雑務に追われてばかりいる間は、そんなことを感じる余裕もないでしょう。ですが、夏休みのようにまとまった時間が得られると、「そういえば学生の頃はのんびりしていたものだ」と思い返します。最初の著作に10年かかったことを思えば、研究書をあと何冊書けるのだろうかと考えてしまいます。人生の時間が無限にあるはずもなく、研究者としての時間はさらに限られているのですね。

2002年7月下旬

『東洋協会調査資料』全7巻(日本図書センターより近刊)のパンフレットに下記のような推薦文を寄せました。

「華北分離工作が本格化する直前の昭和10年4月、拓殖大学の経営母体である社団法人東洋協会は調査部を新設した。以来、東洋協会調査部は同年6月から昭和18年5月までの8年間、立て続けに全51輯の調査資料を刊行している。資料の刊行された昭和10年代は紛れもなく大きな岐路となる時代であり、そこには外務省や陸軍当局をはじめとして、多彩な情報源が活用されている。

注目すべきは調査対象の包括性であろう。中国の内外政や国防・経済はもとより、満州国、朝鮮、台湾、モンゴル、ソ連、海南島といった地域が網羅されている。もう1つの特徴は速報性である。一例を挙げれば、第26輯『蘆溝橋事件の経過概要』は事件発生の直後に刊行されており、臨場感にあふれる。

そのためもあり、全ての資料と同様、『東洋協会調査資料』にも歴史的な限界があるのは無理からぬことであろう。しかしそれだけに、時局認識を生々しく伝えてくれる利点は大きい。この点がしばしば研究者の盲点となるからである。巻末の「東洋時事日誌」も有益となる。」

2002年7月中旬

国際教育情報センター主催の第2回日欧歴史教育会議に参加してきました。今回対象となった時期は、19世紀後半から第1次世界大戦まででした。会議ではヨーロッパから歴史家や教育関係者を5、6名ほどお招きし、日本側からは政治史や経済史といった各分野の専門家が報告しました。その上で、諸外国での歴史教育や教科書の記述を含めて、日本の姿をどのように世界に伝えていくべきかといったことが話し合われました。

私に割り当てられた課題は、当該期の東アジア国際政治でした。私としては、今まで研究したことのない時期だけに拝辞したかったのですが、最終的には引き受けさせていただきました。当該期に限らず外交史がいかに下火となっており、また、自分の研究領域が歴史研究の全体からみればいかにちっぽけなものかということを再認識できただけでも、出席した甲斐がありました。

2002年7月上旬

拙著『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』(有斐閣、2001年)の第2刷が、ようやく少しずつ出回るようになったようです。

2002年6月下旬

「幣原喜重郎と20世紀の日本」と題する小品を脱稿しました。有斐閣のPR誌『書斎の窓』(2002年9月号)に掲載予定です。

2002年6月中旬

憲政記念館にて、特別展「吉田茂とその時代―サンフランシスコ講和条約発効50年―」を見てきました。

2002年6月上旬

幣原喜重郎に関する小さなエッセーを書いています。

2002年5月下旬(その2)

拙著『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』(有斐閣、2001年)の第2刷が発行されました。拙著にコメントして下さった方々に、重ねて御礼申し上げます。それらを踏まえて少なからず加筆修正しましたが、全面的な改訂には至っておりません。今後も、何かお気づきの点がおありでしたら、是非お知らせ下さい。

2002年5月下旬

國學院大学文学部の国史学会に参加してきました。伝統ある学会にふさわしく、質の高い報告が多かったようです。私自身も近代史部会にて、「昭和5、6年の対外関係」と題して報告させていただきました。

2002年5月中旬

松本記録「支那ノ対外政策関係雑纂『革命外交』(重光駐支公使報告書)」(外務省外交史料館所蔵)を題材とした編著『満州事変と重光駐華公使報告書――外務省記録「支那ノ対外政策関係雑纂『革命外交』」に寄せて』(仮題)の入稿に向けて、最終的な調整を行っています。秋頃、日本図書センターより刊行予定です。

2002年5月上旬(その2)

『外交フォーラム』第167号(2002年6月)に酒井哲哉先生が拙著『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』(有斐閣、2001年)の書評を執筆して下さいました。

2002年5月上旬

日ソ外交史研究で知られるボリス・スラヴィンスキー氏の訃報が御家族より寄せられました。3年前にロシア外務省外交史料館で偶然お会いして以来、留日中には拓殖大学での研究会に御参加いただくなどしていただけに、本当に残念です。最後に来日された際、1930年代から40年代の日ソ外交史をもう一度論じ直してみたいと熱っぽく語っていらしたのが昨日のことのようです。

また、奉ソ戦争と呼ばれる1929年の中ソ紛争にも関心を示されており、拙著の該当部分を知人にロシア語訳してもらった上でお送りしたこともありました。日本の研究者の力になりたいので、必要があれば遠慮なく紹介して欲しいともおっしゃっていました。

なお、3年前にロシア外務省外交史料館でお会いした頃の様子については、拙稿 「ロシア対外政策公文書館を訪れて」(『近現代東北アジア地域史研究会ニューズレター』、第11号、1999年)13-17頁、で少しばかり言及したことがあります。

2002年4月下旬

つい先日、新入生のオリエンテーション・キャンプに泊まり込みで行って来たと思っていたら、早くもゴールデン・ウィークの季節になってしまいました。授業やゼミでは、導入部分を終えつつあります。毎年この時期になると、活字離れが進む中で、どうすれば学生さん達に興味をもってもらえるのかを考えさせられます。その一方で、インターネットや漫画といったメディアの影響力は、無視できないところまできているようです。これらの多くは扇情的で、手軽さもあって読書習慣のない学生には浸透しやすいようです。

こうしたことは、教育や研究のあり方に再考を促しているようにも思えます。ホームページを作成しようと思った契機の一つもここにありました。

2002年4月中旬

「戦間期の東アジア国際政治」研究会にて報告させていただきました。論題を「1930年代初頭の日米中関係」としましたが、実質はロンドン海軍軍縮会議と満州事変について、限られた視角から再考したものに過ぎません。新学期でお忙しい中を御参加下さいました方々に御礼申し上げます。懐かしい方や初めての方ともお会いすることができ、刺激になりました。報告の内容に関しては、何らかの形で活字にしていければと思っております。

2002年4月上旬

拙稿「重光駐華公使報告書

(『軍事史学』第37巻第2・3号、2001年)247-259頁にて御紹介させていただいた松本記録「支那ノ対外政策関係雑纂『革命外交』(重光駐支公使報告書)」(外務省外交史料館所蔵)の刊行を検討しています。既によく知られた史料ですが、200字詰め原稿用紙で686枚という分量のため、通読されることは稀だったように思われます。

この重光報告書については、4月20日の「戦間期の東アジア国際政治」研究会で御報告すべく準備を進めています。もっとも、不慣れなため、作業は遅れております。同研究会ではその他、ロンドン海軍軍縮会議についてもお話しさせていただくつもりですが、新学期も始まり少々焦り気味です。

2002年3月下旬

拙著『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』(有斐閣、2001年)にて、吉田茂賞を受賞しました。思いがけない幸運に恵まれることができ、大変に感謝しております。同書は増刷に向けて、加筆修正を済ませてあります。この間、拙著にコメントをお寄せ下さった方々に御礼申し上げます。また何かお気づきの点がおありでしたら、御一報下されば幸いです。

2002年3月中旬

ある研究会で、中国の先生方数名をお招きし、中国における研究動向やその背景に関してお話ししていただきました。日本との研究方法の違いなど、歴史研究を考える上で有意義でした。

2002年3月上旬

同志社大学の研究会に出席させていただきました。太平洋戦争前の日本による暗号解読に関する刺激的な報告を拝聴しました。昨年12月頃から毎日新聞、神戸新聞、Japan Times、The Los Angeles Timesなどで取り上げられていたものを発展させた内容です。開戦前に日本は情報戦で負けていたという理解に一石を投じるものとなりそうです。

2002年2月下旬

アジア歴史資料センターにて、委員の仕事をさせていただいています。それにしても、インターネットで原文書の画像が閲覧できるというのは画期的ですね。かつて私が大学院生の頃、なけなしのお金をはたいてマイクロフィルムで購入したような史料がダウンロードできてしまい、隔世の感です。同センターではモニターを募集中です。

2002年2月上旬

拙稿「カリフォルニア大学バークレー校主催シンポジウム“Treaty-Bound: Japanese Politics and International Diplomacy, 1853-Present”」(『近現代東北アジア地域史研究会ニューズレター』、第13号、2001年、108-110頁)が公表されました。拙稿は、2001年11月にカリフォルニア大学バークレー校にて開催されたシンポジウムの参加記録です。 シンポジウムはサンフランシスコ講和50周年を契機として、幕末から現代に至る日本外交史の主要条約を問い直そうとしたものです。なお、同誌には抜刷がないため、謹呈できませんでした。